6.30.2014

第80回


第80回叙述態研

日時:7月4日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟505教室
【個人発表】

藤田護「南米ボリビア・アンデスのアイマラ語とアイマラ語の口承文学の語り」


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【発表要旨】
 報告者は2009年度より南米のボリビア・アンデスでアイマラ語の口承文学の聞き取り調査を続けている。アイマラ語は、南米で、スペイン語とポルトガル語を除くと、ケチュア語とグアラニー語に次ぐ話者をもち、アンデス山地の高原部で約200万人の話者をもっている。

 アイマラ語には、情報源を区別しなければならない、すなわち自らの体験に基づくのか他から聞いた話なのかを動詞の活用として区別しなければならないという文法上の特徴があり、これは隣接するケチュア語とも共有される特徴であるが、さらにアイマラ語では引用を複雑に組み合せて語りを組み立てていくという特徴がある。

 そのような文法的側面の過度の強調は言語使用における自由を見逃すのではないかという批判がこれまでになされてきたが、実際にアイマラ語の物語りは変わりゆく現実に対して動的に適応・対応していくという性格をもつことは、これまでの報告者の調査からも明らかになっている。それは、話者が動詞の活用や引用を複雑に操り、複数の時代を手繰り寄せながら語っているからであり、また一見現実と切れた話でも、話を語り終えた後にコメントが挟まれたり、それに対する会話がなされたりすることで、現実とのつながりを確保し、現実を説明するための位置づけを獲得していくからなのではないだろうか。
 「口承文学」と「オーラルヒストリー」の間の区分は絶えず疑問に付されなければならないとしても、その二つの間を自在に動くかのようなアイマラ語の口承の語りの性質を理解するために、実際の話の展開を追い、原文と音声を参照しつつ、考察をすることとしたい。(藤田護)

6.16.2014

日本社会文学会春季大会

村上克尚さんからの告知です。
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 皆さま

 いつもお世話になっております。
今回は学会の告知をさせて頂ければと思います。 
今週の土曜日に東京学芸大学にて、日本社会文学会春季大会が開催されます。
金石範さんによる基調講演のほか、 きむすぽのメンバーである、金ヨンロンさんや林少陽さんのご発表もあります。
どなたでも参加可能ですので、ぜひお誘い合わせの上、足をお運びください。 どうぞよろしくお願いいたします。

 村上克尚
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 日本社会文学会春季大会「グローバルアジアと社会文学――歴史から未来へ」
 日程 2014年6月21日(土)
 場所 東京学芸大学 S410教室

 〈研究発表〉(午前9時30 分より)
 崔恵秀「「言」から「文」へ――中里介山「高野の義人」の改稿をめぐって」
 金ヨンロン「テクストを統御する暴力 ――井伏鱒二『谷間』を中心に」
 黒川伊織「戦後文化運動における朝鮮戦争の経験――新日本文学会神戸支部を中心に」
 梁禮先「日本プロレタリア文学の朝鮮・朝鮮人像から読む現在と未来」

 〈講演〉(13時より)
 金石範「文学にとっての歴史」(仮題)

 〈シンポジウム〉(14時より)
和泉司「国共内戦と日本、そのときの邱永漢――「長すぎた戦争」を中心に」(豊橋技術科学大学)
波潟剛「コロニアル・モダニティの射程――グローバルアジアの時代に」(九州大学)
林少陽「章炳麟とアナーキズム運動との関係――その「国家」論を中心に」(東京大学)
権赫律「一九二一~一九二二年における春園・李光洙の「親日」小考」(吉林大学)

日本社会文学会 http://ajsl.web.fc2.com/

6.04.2014

第79回

6月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
今回は個人発表の回となります。皆さま、どうぞ足をお運びください。

第79回叙述態研
日時:6月6日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟小研修室3A
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【個人発表】
伊藤優子「「文学界」グループと中原中也の交錯――「六月の雨」まで」
平井裕香「恐怖を恐怖する言語―川端康成「針と硝子と霧」に読むジェンダーの編成」

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【発表要旨】
伊藤優子「「文学界」グループと中原中也の交錯――「六月の雨」まで」

 1934年6月号より再刊された雑誌「文学界」はいわゆる「文芸復興」を主導した雑誌として知られているが、その運動の中で小説・批評と共に詩の果たす役割の可能性が作家達により議論されていたことはあまり注目されていないように思われる。論議は「文学界」が文壇の中心雑誌へと移行していく過程で活発になり、そこには中原中也の知友小林秀雄・河上徹太郎がいた。「文学界」は中原中也の存在を「文壇」内に周知させる一転機として位置づけられているが、同人達が見る詩人像と見られる詩人の意識は必ずしも一致していない。
 発表ではまず、雑誌の「六号雑記」や「編輯後記」、誌上座談会から文学の危機的状況が共通認識として語られる一方で、新たな文学者が希求されていく様相を検討する。その中で中原中也は「文学界」グループが発見した詩人として誌面前景に登場してくる。
 次に、雑誌掲載評論「詩と其の伝統」が批評家、特に河上との応答によって書かれていること、両者の詩の概念が類似していることを確認する。これ以前から彼等の詩観には「対象と心象との距離」が重要な問題として共有されているのだが、それを実作として示したものが「六月の雨」ではないだろうか。こうした試みと若い批評家たちの思惑との交錯を通して、この時期の中原中也の仕事を発表媒体との関係で位置づけ直すことを目的とする。


平井裕香「恐怖を恐怖する言語―川端康成「針と硝子と霧」に読むジェンダーの編成」

 本発表の目的は、川端康成の「針と硝子と霧」(「文学時代」一九三〇年一一月)を、それを取り巻いている「文学」をめぐる共時的・通時的な言説編成を相対化しつつ読むことである。先行研究において繰り返し語られ、実体化されてきた感のある作中人物・「朝子」の〈狂気〉を、「作者」と「読者」が共犯的に[再]生産する意味として捉え直し、そのような意味生産のメカニズムを明らかにすること、と言い換えることもできる。「朝子」の言葉は、それを〈狂気〉として対象化することによって、またそのような対象化を可能にするために、「弟」「夫」「作者」及び「読者」の言葉が構築する閉鎖的なコミュニケーションに、ノイズをもたらしている。とりわけ、先行研究においては引かれることの稀であった、「朝子」が「おかあさん」に宛てて記した手紙として提示される物語世界内的エクリチュールは、母と娘を対話不可能な一体性の中に閉じ込めることによって「女」の〈狂気〉或は〈狂気〉の「女」を現出する、異性愛男性中心主義的な言語に抵抗している。そのような言説の争闘の場として、また「作者」と「朝子」の言葉が確たる境界を失していく過程として読まれるとき、「針と硝子と霧」は、「小説」を読む/書く行為に蔓延る「恐怖恐怖症」の徴候を炙り出すテクストとして顕れるだろう。
 ※本発表は、日本文学協会第33回研究発表大会(二〇一三年七月七日、神戸大学)における口頭発表「娘の言葉―川端康成「針と硝子と霧」及び「母の初恋」におけるジェンダーの編成」の内容の一部に、大幅な加筆・訂正を加えたものである。