3.21.2013

第70回

日時:4月5日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、スポーツ棟第一研修室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【著者セッション】
藤井貞和『文法的詩学』(笠間書院、2012年)
書評者:鴻野知暁、坂田美奈子、藤田護

今回は、昨年刊行されました、藤井先生の『文法的詩学』を集中的に議論する会となります。
ぜひ皆さまお誘い合わせの上、ご参加ください。
(5月きむすぽは開催日が祝日と重なるため、お休みの予定です)


[企画趣旨]
2013年度最初のきむすぽは、昨秋、詩論集『人類の詩』(思潮社)と同時刊行された、藤井貞和『文法的詩学』を受け止めるところから始まります。
「テクストを支える、言語の底を浚渫することなくして、物語の読解も、うたの享受もなかろうと思える」――これは本書の結びの章に見える一節ですが、今回メインコメンテーターを務めて下さるのは、そのような「テクストを支える言語の底」への深い問題意識を、これまでも度々この会で開示して下さった鴻野知暁さん、坂田美奈子さん、藤田護さんです。
さかのぼってみますと、ちょうど2年前にあたる2011年度4月きむすぽにて、本書の前史を形作る『日本語と時間』(岩波書店2010.12)の著者セッションが行われ、藤田護さんから、坂部恵氏の仕事を傍らに眺めつつ、『日本語と時間』を〈古文読みの理論〉として意味づける詳細なコメントが提示されました。
また同じ日に、個人発表枠では鴻野知暁さんが、本書でも大きな存在感を放つ大野晋氏の説と格闘しながら、係り結びの〈起源〉を考察されました。
〈時の助動辞〉を中心としたこの前著から、さらに包括的な原理論となった本書に、お二人があらためて対峙する今回のきむすぽは、2年前の著作と議論をご記憶の方にとっても、また本書ではじめて議論に接する方にとっても、たいへん刺戟的な場になることと存じます。
また、昨年の6月きむすぽにて、歴史学の方法論的葛藤の先に、アイヌ口承文学を新たな地平に位置づけようとする坂田美奈子さんを囲んでセッションを開催したことは記憶に新しいところですが、本書の洞察に欠かすことの出来ないアイヌのことばを専門とする坂田さんが、さらに深く議論を掘り下げる端緒を与えて下さることと思います。
本書にとって大事な成立要件を語る著者の言葉に触れて、企画説明に代えさせて頂けるならば、本書は、震災後私たちの多くが突き当たらざるを得なかった「ことばは無力か?」という問いに深く答えるために纏められました。
「われわれのうちなる、けっして無力であることのできない部位」を明らかにする言語理論として差し出された本書をめぐって、著者の藤井先生と、皆さまと、さまざまに議論を交わせるのを楽しみに致しております。
どうぞ、ふるってご参加ください!


「文法的詩学」
「物語を読む、うたに心を託す」ために必要な言語理論を案出する書。

「時枝、佐久間、三上、松下、三矢、そして折口、山田、大野、小松光三、あるいはチョムスキー......絢爛たる文法学説の近代に抗して、機能語群(助動辞、助辞)の連関構造を発見するまでの道程を、全22章(プラス終章、附一、附二)によって歩き通す」

物語や詩歌を読むことと、言語学のさまざまな学説たちとのあいだで本書は生まれた。
古典語界の言語を当時の現代語として探究する。

【「物語を読む、うたに心を託す」という、私の研究の道のりのなかばで、物語を解読するために、また、うたに遊弋するために、必要な言語理論を案出したい。
 教室では、既成の文法―学校文法を代表とする―を利用しながら、そして、それらが欠陥品であることを、だれもが知っていて、それらへの修復につぐ修復をみんなで試みながら、なんとか凌ぎ凌ぎして、物語やうたを読み、かつ味わい続ける。
 それに飽き足らなかった自分だと思う。いつしか、文法理論の藪へ迷い込んで、「おまえは何をしているのか」と、友人たちの訝しみの視線が、背なかに突き刺さる歳月、それでも言語じたいへの関心(夢想のような)を抱き続けてきた
 物語にしろ、うたにしろ、無数の文の集合であり、言い換えれば、テクストであって、それらが自然言語の在り方だとすると、文学だけの視野では足りないような気がする。言語活動じたいは、文学をはるかに超える規模での、人間的行為の中心部近くにある、複雑な精神の集積からなる。......はじめにより】