12.07.2012

第69回


12月7日(金)
【個人発表】
黄ジュンリャン「戦時上海における家庭、資本と旅をする女たち—林京子『ミッシェルの口紅』を中心に—」

【個人発表 要旨】
黄ジュンリャン「戦時上海における家庭、資本と旅をする女たち―林京子『ミッシェルの口紅』を中心に―」

<上海=戦争>と<ナガサキ=原爆>という二つのできごとを原点にして語ってきた林京子の過去にたいする記憶が、ただ時の再生ではなく、あらためて構築された「形あるもの」だということがよく強調される。今までの先行研究では林京子文学と歴史を結成する軸として<ナガサキ=原爆>のほうを中心に見るものは多いと思われるが、本発表ではむしろ彼女のいわゆる「上海もの」の分析を通して、林京子文学の違う側面を描き出すことを試みたい。彼女の上海ものはいずれも1980年代以降に書かれたものであるため、敗戦・被爆や戦後日本経済の高度成長、沖縄のアメリカから日本への返還、日中国交回復など諸々のできごとにより忘却され、上書きされ、あるいは遮断された記憶は、小説のテクストと上海在住当時の
歴史的コンテクストの間にあるさまざまな言語的空白から追跡できると思われる。本発表では、そのような空白を歴史調査の引用で埋めながら、女たちが表舞台に立ちあがり活躍する作品として『ミッシェルの口紅』を扱ってきた先行研究に反論を試みつつ、同小説を読みなおしたいと思う。

本発表では、1938年から1945年の虹口租界で起きた暴力的な場面が一つ一つ分解され、戦時上海における女性のさまざまな不在(アブセンス)と、その根本的な不在(アブセンス)から生み出されるさまざまな(不)可視についての議論が行われる。発表者はまず、夫の後について外地に移住しディアスポラになった女性たちの性を、植民地主義というコンテクストのなかで、メタレヴェルにおいて考察を試みる。彼女たちの、戦線と銃後の両方における不在(アブセンス)を示唆し、それは男の現前(プレゼンス)に上書きされ、男の性に収斂した結果だと主張する。次には、家庭という枠組みに焦点を移し、同時に第二次上海事変後の上海におけるイギリスと日本の競争関係や、日本軍国政府と大手商社や銀行の海外進出との緊
密な連結をも紹介しながら、資本をもつ中国人女性の男性中心的な政治舞台における特別な現前(プレゼンス)に注目する。最後には、家庭という枠組みの外側にあるところ、例えば職場や、あるいは「職場」というものさえ持てずに周縁的なところで苦闘している男や女の事例を見てみる。以上の議論で、「被害者」や「加害者」という図式から脱出し、戦時上海にいる女性という主体(同時に男性も)が呈する性の不在(アブセンス)や現前(プレゼンス)、屈辱や忠誠などの側面を重層的な記憶と記述を通して表現しようとする林京子の「上海もの」がもつ、彼女の原爆文学とは違った風格がすこし見えてきたのではないかと思われる。

【著者セッション】
高榮蘭『「戦後」というイデオロギ——歴史/記憶/文化』(藤原書店、2010年)
コメンテーター:逆井聡人 司会:岩川ありさ


【著者セッション 企画趣旨】
 1990年代以降、ひとつのできごとにはいくつもの語り方があり、歴史が編成されると
き、それぞれの立ち位置(ポジショナリティ)からしか物事を見ることはできないとい
うことが明らかになった。本書の「はじめに」にもあるように、この本は「戦後」とい
う意味内容の「空白性」に注目し、その空白が充填される際の言説的力学の働き方、つ
まり、「記憶の再編」のなされ方について分析している。戦前・戦中・戦後のそれぞれ
の時期に書かれたテクストが1945年以後如何に評価されてきたか、またその評価の際に
前提とされていた評価者の視座としての「戦後」がどんなものであったかが問題視され
ている。

 それでは「戦後というイデオロギー」とは何か。それはある特定の意味内容をさす言
葉ではなく、「戦後」という言葉が使われる際のその時その時の前提にされる「枠組」
自体である。その枠組は、それぞれの研究者や批評家の立場と同時代の言説状況に沿っ
て具体的に検討されている。ただ、それらの枠組に通底するのは「日本/韓国」という
国民国家を基準としたナショナルな線引きであったり、「日本民族/朝鮮民族」という
エスニシティを前提としていることだろう。二つの「国家」・二つの「民族」をソリッ
ドなもの(確固たる塊)として前提にすることが「戦後」という言葉を底支えしている
概念と言えるかもしれない。本書が、「ポストコロニアルの手法をとらない」と注意書
きしている理由はここにある。すなわち二つの別個の「国家」や「民族」を前提に、「
支配/被支配」「抑圧/抵抗」という二項対立的な図式を作り出してしまうことになり
がちな「ポストコロニアル」的視線を避けるということである。

 以上のことを踏まえて、本書はそれぞれのテクストが生成される場を捉えようとして
いる。そうした生成(創造)の場では、様々なアイデンティティーと同時代に特定の意
味を持った言葉たちが交錯している。それらが交錯する接点を綿密に捉えていくことに
よって、従来の固定化された言説(または神話ともいえるかもしれないもの)を脱構築
していく。そしてその脱構築が最終的に作用するのは、著者を含めた読者の「いま・こ
こ」であろう。つまり、本書に接した際に読者としてのわたしたちは、自らが今立って
いる位置、前提としている概念を改めて問いなおさなくてはならない。私たちは「歴史
」をどう見ているのか、「戦後」というイデオロギーに捉われているのだろうか、とい
う問いが目前に現れる。まさしく、現在進行形の問題として「歴史」を捉え、「歴史」
に捉えられている〈わたし〉の立ち位置(ポジショナリティ)が問うてくるのが本書だ
。今回の書評セッションではそのような自らの位置まで含めて議論できればと願ってい
る。

・本書の著者である高榮蘭(こう・よんらん)さんは、1968年、韓国・光州生まれ。19
94年に日本へ。2003年日本大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現
在、日本大学文理学部准教授。専門は日本近代文学。

・書評者の逆井聡人(さかさい・あきと)さんは、東京大学大学院総合文化研究科言語
情報科学専攻博士課程在籍。戦後の闇市や焼け跡の表象研究をはじめ、近現代日本文学
を専攻なさっています。今回は、近年の国外の日本近代文学研究を参照しつつ、東アジ
アというコンテクストにおいて日本語で書かれたテクストを読んでみることの重要性に
ついて話してくださいます。

*この趣旨文は、書評者である逆井さんのご協力をえて作成しましたことを書き添えま
す。